ゴルゴダとブルースとアルコールと僕

2006/04/07

4月7日。

 

 

 

日本に於いて、この日がどんな日か知る者は少ない。

 

僕にとって4月7日と、12月8日は同義の哀しみを覚えさせてしまう。

無神論者の僕でさえ、ブルースとアルコールに浸りたくなる。

 

例えば、そんな日だ。

 

 

愛や平和をファッションのように身に纏い、或る度、それを粘土細工のように歪なカタチに作り変え、首や、耳や、頭からピースを体感し、外に向けてアナウンスする。

 

それは決して不純なことではない。

むしろ、平和という概念を、よりカジュアルに、よりシンプルに着こなせる人達は、本当にすばらしいと思う。

 

 

とはいえ、たくさんの犠牲の上に成り立つものなど、もはや平和ではないと、数年前の僕なら言っていただろう。

 

 

不条理の中にさえ歪んだ道徳や倫理が存在し、死生観の定義など僕等は生まれながらに崩壊している事を知っているし、宗教という巨大な利己的概念の渦に飲み込まれるのを恐れ、共時性と呼ばれる必然的な運命の誘導を入り口から否定して育ってきたのだ。

 

 

それは、なぜか?

 

 

伊藤博文内閣時には、日本人にも天皇を崇拝する独特な宗教的観念は存在し、自虐性や犠牲愛を忠誠心だと欺瞞したまま、妄信していた時代が確かにあったのはずなのに。

 

 

答えは意外なほどに簡単だった。

 

 

愛や平和が、僕等にとっては明確な輪郭を持つ、極めて身近なものである事を、宗教観のないままに実感しているからだ。

 

世界の平和なんて、本当はどうでもいいし、大掛かりな慈善(或るいは偽善)事業に違和感を覚えるセンスが身についているからだろう。

 

 

世界の平和よりも、身近な平和のほうが、よほど重要だ。

 

遠くの国のテロや災害よりも、身近な人の体調不良のほうが、 よほど心配だ。

 

 

「君が考えているほど、世の中は複雑じゃあないよ。」

子供の頃、母親にそう言われた事がある。

 

 

4月7日を迎えるたび、その言葉を思い出してしまう。

 

 

神や仏が、あまりにも多く存在する今だからこそ、僕はこの言葉の持つ意味深さに足をとられてしまうのだろう。

 

 

 

 

4月7日。

 

 

 

 

今から2000年近く前のこの日、ゴルゴタの丘で十字架に貼り付けられた34歳の青年は、やがて、神と呼ばれるようになった。

 

 

そんな彼を思いながら、ブルースを聴き、静かにお酒を飲む。

 

 

僕にとって平和とは、そんな些細な傍観の連続と、限られた仲間にだけ向けるサディスティックな優しさだったりするのです。

 

 

さぁ、仕事しなきゃ。

 

 

 

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