ゲノムの交信(続 ゲノムの行進)

2006/04/21


誰かを「理解」する。

 

 

 

これほど難しい事はない。

 

 

当然ながら、僕等を覆ういくつもの概要は、他人から認識されて、ようやく自覚的認知を伴う自己として成立している。

 

しかし、「キミ」から見た「僕」が、あらゆる「僕」の要素を顕在化しているわけではないし、「僕」が理解し得る「キミ」も、決してその限りではない。

 

 

だからこそ、僕等は常に「発信」と「受信」をくり返し、最も居心地のいい関係を模索しようとする。

 

 

それは、雇用関係であろうと、友人関係であろうと、恋人関係であろうと、それぞれに大きな差異はないだろう。

 

 

ただ、作為的であれ、無作為的であれ、「発信」と「受信」を繋ぐものは、環境の共有と、限られた「言葉」の選択でしかないのだ。

 

 

 

そして、その関係性が親密になればなるほど、「言葉」はよりシンプルなものに姿を変えていく。

 

 

 

「彼女」の父親になって六年以上を費やしたが、その最たるものが「親子関係」であると思い知らされたのは、つい最近になってからだった。

 

 

 

 

僕等は大抵、人に何かを伝えようとする時、相手の反応を瞬時にシミュレートして、可能な限り、有効でスマートなコミュニケートを図ろうとするものだが、当然、多くのロジックを持たない「彼女」にしてみれば、それらは全て、無意味にややこしい、単なる発音のコラージュに過ぎない。

 

 

しかし、それは「僕」にしても同じ事で、「彼女」が時折、無意識に呟く、独り言のような「言葉」のコラージュは、元素記号の周期律を正確に読み解くより、遥かにややこしいのだ。

 

 

 

だからこそ「彼女」の生きている世界は「僕」の知る世界とは幾分かけ離れ、

「彼女」の中心に着座しているコンセプトは、大人になってしまった「僕」に、

巨大立体迷路のような畏怖を呼び込んでしまうのだろう。

 

 

よって、「僕」が「彼女」に何かを伝えようと試みたところで、その「言葉」の持つ情報のほとんどは、「彼女」の抽象主観的受動の中に深く沈み、思いもよらないレトリックとなって「僕」に返ってくる。

 

 

そういうのが愉快で仕方なかった時期が、もう僕等の遥か遠方で柔らかい記憶に変わってしまった今、「僕」が「親」として出来る事は、「言葉」の持つ原理主義的な側面の一端を、「彼女」の世界に於けるフォーマットの中で、分りやすく丁寧に分解し、繋ぎ、伝えていくしかないように思える。

 

 

 

つまり「彼女」の世界を受け入れる事から、僕等の交信は始まるのだ。

 

 

 

だから・・・。

 

 

まだ社会的倫理観を持たない「彼女」がクラスメイトを(一匹、二匹・・・)と数えてしまうことも、勉強がしやすいという理由で、与えられたばかりの教科書をわざわざハサミで切り取ってノートに貼り付けてしまうことも 、まるで理解できない理由で、左右違う靴下を履きたがることだって・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

 

あぁ・・。

 

 

本当に受け入れられる日は来るのだろうか???

 

 

 

やれやれ。

 

 

 

 

 

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