検索
開放と共有
- mail6111
- 2005年11月15日
- 読了時間: 2分
子供のころ、「それ」は見落としてしまうほどに小さく、また、日常に於いて、数瞬すれ違ったとしても気づかないほどに曖昧で些細な事だった。
しかし、生後28年目を迎えた今、やはり僕は僕でしかなく、「それ」を有効にやり過ごす手段も、
とうとう底をついてしまったかに思える。
さて、どうしたものか・・・。
限られた人生の数年間を、悪戯にやり過ごしてしまったその歴史を、まるで追認するように僕は自らを問い、自らに解を求めている。
とはいえ、言葉にさほどの真理は無い。
その先にあるのはいつだって、不作為的なカタストロフィばかりだ。
並べたり、置き換えたり、ズラしたりしながら、僕はその内側でも外側でもない場所で今日も「それ」と対峙している。
解は無い。
ならばいっそ「それ」すらも喜観的に捉えてみてはどうだろう。
光と影のように、生と死のように、いつだって「それ」は僕と背中合わせなのだ。
その一瞬が、すでに未来であり、それと同時に過去であるなら、
僕のリミットは確実にすり減っている。
細胞は老化し、「感性」などといった、極めて青く、生臭く、実体の無い虚妄でさえも、やがて姿を消していく。
どうであれ、「退屈」と呼ばれる「それ」は、今日も僕の背中にべったりと張り付いている。
解放される事を、共有される事を、切望しながら。
★★★★★★★★★★
【日常の解放 退屈の共有】をコンセプトに
新しく生まれ変わった 【JAGG BRAANQUIN ジャグブランキン】
さぁ。いよいよ、開店です。
Comentários